ディズニープリンセスは往々にして、批判を受けながら進化してきた。
中でも多いのが「ハッピーエンド=結婚」としているストーリーについての批判。とにかくプリンセスを「苦手」とする人はどうにもこの展開に納得がいかないという。
しかし、そんな人にこそ『プリンセスと魔法のキス』をお勧めしたい。
何故なら本作はラブストーリーでありながら、一貫してティアナの夢がテーマであり、「王子との結婚」がただの通過点に過ぎないからだ。
アンチプリンセスへのアンサーでもある本作。
他にも色々な構成要素が「異色」なプリンセス映画、『プリンセスと魔法のキス』を解説していこうと思います。
- 基本情報
本作はディズニースタジオの歴史を鑑みるとかなり「エモい」作品であるのですが、スタジオ史にそれ程興味のない方はあらすじまで読み飛ばしてもらって構いません。
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時は『プリンセスと魔法のキス』公開の6年前、2003年に遡ります。
当時のCEOマイケル・アイズナーはディズニールネサンスを築いた立役者でありながら、1990年代後半あたりからは続編商法に手を出したり右腕カッツェンバーグを追い出しピクサーやドリームワークスに興収で完敗したりととにかく迷走するのですが(彼はユダヤ系アメリカ人であるにも関わらず、その独裁体制から「マウシュヴィッツ」と最悪な蔑称を付けられた)、中でも彼が行った施策で代表的なのがアイズナー宣言でしょう。
勝手に名付けましたが端的に言えば、彼は2003年に『ホーム・オン・ザ・レンジ(2004)』の公開をもって「手描きスタイルの長編アニメーション製作から撤退」することを表明したのです。
そして同年『リトル・マーメイド(1989)』、『アラジン(1992)』『ヘラクレス(1997)』などを監督したジョン・マスカーとロン・クレメンツはディズニーをクビ……退社します。他にもディズニールネサンスを支えたアニメイター達が半ば追い出されるようにして居なくなってしまいます。
ジョン・マスカーは後のインタビューで「私たちが取り組んだ机は捨てられ、スケッチに使用した紙さえ廃棄された。もう手描きアニメを作らないと言い渡された時は、まるで家族の誰かが亡くなったようだった」と語っています。
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しかし2005年にアイズナーCEOは株主にこれまた追い出されるようにしてディズニーを去ります。更に2006年にピクサーが完全子会社され、ピクサーお抱えジョン・ラセターがディズニーにCCOとして帰ってきました!これは流れ変わったな。まさにディズニーの救世主です。
ラセターは「(90年代後半〜00年代の)ディズニーの手描きアニメが衰退したのは''手書きが古いから''ではない」「媒体は関係なく、単に作品がつまらなかったからだ」と非常にド直球に言い捨てたあと、「伝統を重んじるディズニーは手描きアニメを復活させるべきだ」と考えます。
ディズニーアニメがCG化をせざるを得なくなったのはピクサーの大ヒットに焦ったからというのが大きいので、そのトップクリエイターだったラセターが手描きを復活させるというのは何とも皮肉な話なのですが、CGアニメを生み出した彼だからこそできた決断でもありますよね。
そしてジョン・マスカーとロン・クレメンツを呼び戻し、本作の監督脚本を担当させ、そして選ばせたのです。
伝統的な手法か、CGか と。
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ガストン、ジャファー、スカーなど人気キャラクターのスーパーバイジングアニメイター(キャラクター造りのトップ)を務めたアンドレアス・デジャはメイキングでこう語っています。
「何も知らない状態で大きな会議に参加させられて全員で大きなテーブルに座った。そこで''The Princess and The Frog''を紙の上(手書き)で製作すると言われて……」
「Yeeees!!!!!思わず勝利のダンスを踊ったよ!!!興奮しない方が無理だった!」
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(CG化の波でロクに仕事をさせて貰えなかった)手書きアニメイター達は「やっと息ができる!自分達の本領を発揮できる!」と5年ぶりの手書きアニメーション復活に大喜びしました。
『プリンセスと魔法のキス』は、かつてルネサンス期を盛り上げたアニメイター達の意地がかかった一作なのです。
名作じゃない方がおかしいんですよ。
だからファシリエのダンスといい、ママオーディの歌といい、キャラクター達が水を得た魚のように生き生きと動きます。ワニのトランペット奏者ルイスがトランペットを吹くシーンなんて最早変態の域です。一瞬も止まってるコマが無い。
アニメイター達の「絵が描ける喜び」がこっちにひしひしと伝わってくるように、背景やモブキャラもかなり細部までこだわり抜いているのがわかる。全くもってそういった製作過程を知らなくてもわかったくらいには、今までのディズニー映画と全然動きが違います。
変態度でいえばウォルトも大概ですが、本作はバンビやファンタジアとも十分タメ張れる変態度だと思っているので…。ウォルト作品が「静的に魅せる」作品なら、プリンセスと魔法のキスは「動的に魅せる」作品だと言えます。
もうこれを超えるプリンセス作品が出てくるかどうか。反語。
本作以降WDASは全編手描き長編アニメを一本も製作していません。
名実ともに「ディズニー最後」となった訳です。
付け加えると、ジョンマスカーとロンクレメンツという黄金コンビが手掛けた『リトル・マーメイド(1989)』がディズニールネサンスの始まりを告げたのと同じように、『プリンセスと魔法のキス(2009)』によってディズニーリバイバル(第三次黄金期)が始まりました。
(しかもルネサンスの終わりとも言われる『ヘラクレス(1997)』とリバイバルの終わりとも言われる『モアナ(2016)』もこの2人が共同監督とかいうジンクスの徹底ぶり...)
だから本作はWDAS史を語る上で非常に「エモい」立ち位置の作品なんですね。
さて長々と書きましたがここまで前置きです。
大丈夫。書いてる人がいちばん驚いてるからね。
- あらすじ
1920年代のニューオーリンズ。働き者のティアナはいつか自分のレストランを持つことを夢に寝る間も惜しんでいた。もう少しで夢が叶う彼女のもとにDr.ファシリエの呪いによってカエルにされたマルドニアの王子ナヴィーンが現れる。「キスをすれば呪いが解ける」と主張する彼の説得によりティアナはカエルとキスすることになるのだが….。
本作の魅力はその舞台設定でしょう。南部アメリカを舞台とした本作は「Dawn in New Orleans(ここがニューオーリンズ)」から始まり、その香りが画面越しに伝わってきそうなガンボスープやベニエなどの郷土料理、ケイジャン(フランス移民)訛りのホタルに陽気なアリゲーターのバイユーシーン…と、実際にトップアニメイター達が現地調査して感じたルイジアナ州の魅力が存分に詰まっています。
そしてなんといってもジャズ・ミュージック!
正直クラシック時代のイカしたジャズ音楽が2000年代のディズニーに帰ってくるとは思っていませんでした。最高〜〜〜!
音楽を担当したのは『トイ・ストーリー』シリーズや『モンスターズ・インク』『カーズ』などの音楽を担当した「ピクサーお抱え」のミュージシャン、ランディ・ニューマンです。彼はWDAS作品はこれ以外携わっていません。
ランディは少年時代をニューオーリンズで過ごしており本作には欠かせなかった……と監督のジョン・マスカーは語っています。(実はディズニーお抱えのアラン・メンケンが『魔法にかけられて(2007)』の音楽を製作した直後だったため起用できなかった……という大人の事情的な理由もあるんですけどね。)これがもう大正解の采配。
シーケンス中で本編とは異なるアートスタイルを取り入れた「Almost There(夢まで あとすこし)」や、働き者のティアナ/怠け者のナヴィーン/ワニのトランペッターのルイスという3人が同じテーマで全く違うことについて歌う「When We're Human(もうすぐ人間だ)」。『Lady and The Tramp(1955)』の「ベラ・ノッテ」的なロマンチズムを感じる詞曲「Ma Belle Evangeline(ぼくのエヴァンジェリーン)」。など、とにかく名曲しか出てきません。名曲を作らないと死んじゃう病気なんでしょうか?(褒め言葉です)
更に曲数も多く、本編中の歌(サウンドトラックを含まない)は7曲とディズニー映画では最多クラスです。ちなみに『美女と野獣』ではリプライズ除き6曲、『リトル・マーメイド』は8曲が挿入歌として収録されています。公開当時はディズニー・ミュージカルが帰ってきた!と泣きそうになりながら観ました。
- もう一度考えて。本作の「メッセージ」
さてこの名曲群の中で今回紹介する曲は、本作のメインテーマを集約した、ママ・オーディの歌う「Dig a Little Deeper(もう一度考えて)」です。
カエルに変えられてしまったナヴィーンとティアナが190歳の魔術師オーディに「必要なものは何か?」と聞かれ「人間に戻ること」と応えると、オーディは「それは''Want(望むもの')'であって''Need(必要なもの)''じゃない!」と答えます。うーん、言葉だけじゃわかるようでわからない。そんな疑問を歌でパッーと解決しちゃえ!みたいな曲ですね。
私が歌詞で一番伝えたいところはAメロのこの部分です。
私が歌詞で一番伝えたいところはAメロのこの部分です。
どんな見た目かなんて関係ない
Don't matter what you look like
何を着ているかなんて関係ない
Don't matter what you wear
いくつ指輪をつけているか?
How many rings got on your finger
そんなことどうだっていいのさ!
We don't care! (No we don't care!)
肩書きなんてもの、まったく関係ないんだ。と。
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ワニのルイスのモデルになったのは、サッチモの愛称で世界に愛されたジャズの王様ルイ・アームストロングです。アフリカ系アメリカ人である彼は1901年にニューオーリンズで産まれました。
当時のアメリカといえば1964年までジム・クロウ法(別名・黒人差別法)が施行されていた程ですので、偏見や差別、黒人に対する暴力なんかも全く隠されずに存在していました。現在こそ隠されるようになりましたが、それもかなり表面的なもので未だ根強く残る差別的意識は解消されていないので、当時の現状と言ったら想像もできない程悲惨なことでしょう。
ルイ・アームストロングは1968年に「サッチモ・シングス・ディズニー」を発表しディズニーとは縁の深い人物です。
ディズニーは彼、彼をモデルとしたルイス、そして『プリンセスと魔法のキス』を通して「見た目なんか関係ない」という、当たり前なことなのに当たり前にならないこと(=差別)に対する深いメッセージを打ち出した訳です。
ディズニーは彼、彼をモデルとしたルイス、そして『プリンセスと魔法のキス』を通して「見た目なんか関係ない」という、当たり前なことなのに当たり前にならないこと(=差別)に対する深いメッセージを打ち出した訳です。
正直「ディズニー初黒人のプリンセス!」と大々的に宣伝された時は「そんなことをわざわざフューチャーして取り上げる方が差別的だろ」と思って食わず嫌いしてたので、このルイスの描写は観ないとわからないメッセージだなと思います(単に宣伝が下手という説もある)。
作中ティアナが「黒人だから」という理由で差別されるシーンはほぼ(買った不動産を向こうの都合で勝手にキャンセルされるなどは恐らく明言されていないが黒人差別に基づくものと思われる)ありませんが、ワニのルイスは「ワニだから」という理由で皆から怖がられており、実力者なのにトランペットを聴いてもらえる機会すら与えられません。この描写で、チャンスさえ平等に与えられないという黒人に対する差別を暗示していることがわかります。
確かにティアナに直接的な差別描写をしたら子供達には観せられません。「教科書のディズニー」がそんなことをするのはいけないことだから。
だからこそ、よく考えながら観ないとわからないようにしています。だから良いんです。
非常に「わかりづらく」差別的描写を取り入れているため、映画レビューでは「黒人プリンセスを売りにしているのに黒人に対する差別描写が薄い」とか「ディズニーだからって差別を無かったことにするな」とかいう表面しか見てないうっすい感想が並ぶわけです。『ノートルダムの鐘』の記事でもこんなこと言ったような気がする。
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さて話を戻します。曲中の「どんな見た目か、どこから来たのかなんて関係ない」というところまではマァ正直、ディズニーでは「ありがち」なメッセージなのですが、この曲では更に次のような歌詞に続きます。
「君が誰か、なんであるかさえ関係ない」と今までの作品よりも一歩踏み込んだ。
君が誰かなんてのも関係ない
Don't even matter what you are.
「君が誰か、なんであるかさえ関係ない」と今までの作品よりも一歩踏み込んだ。
外面の美醜だけでなく、中身さえも関係なく等しいと言っているのです。
これは全くなかなか新しいアプローチの仕方です。
今までのディズニー映画の主人公は、「立場(外面的な問題)が悪かったとしても心(内面的な問題)は綺麗」という人がスタンダードでした。アラジンや『ノートルダムの鐘』のカジモドなんかは正しくそれにあたります。
しかし『プリンセスと魔法のキス』ではどうかというと、本作のプリンスであるナヴィーンはわざわざ書くまでもなくクソ王子。金目当てで結婚なんて一歩間違えればヴィランです(というかそれでヴィランになったのがアナ雪のハンス)。ティアナは怠け者のことを見下しがちなところがある(Almost Thereの歌詞やナヴィーンに対するセリフなど)し、ルイスは本編ではカットされたものの、実は「ファシリエに楽器の腕を上げてもらう代わりにワニにされた」という裏の設定があります。
全く違った性格の3人ですが、揃いも揃って全員「want(望むもの)」に囚われているわけです。
これに漬け込んだのがもう一人の魔術師・Dr.ファシリエであり、彼は「Friends On The Other Side(ファシリエの企み)」のシークエンス内で
けど自由にはグリーン(お金)が必要だ
But freedom... takes green!
お金こそがお前に必要なもの
It's the green, it's the green, it's the green you need
俺にはお前の未来が見える
And when I looked into your future
お前の未来は緑色!
It's the green that I see!
と歌います。これは「お金」のグリーンと「カエル(緑色)」のグリーンを掛けた言葉遊びであると同時に、「ファシリエは物事の本質(WantとNeed)が見えていない」ということを示しています。
お金こそが必要なもの、お金こそが私たちを幸せにしてくれる、お金こそが私たちの「夢」を叶えてくれるんだ...そういった甘い言葉で彼は人を騙し続けてきたのでしょう。
この曲の最後では、彼の「あちら側のお友達」はコーラスで" You got what you wanted, but you lost what you had (お前の欲しいものは手に入ったが、持っていたものを失った)"と丁寧に説明してくれています。
ファシリエの名前の由来は、「簡単な」という意味のfacile。彼は簡単に欲しいものを与えてくれる代わりに、必要なものを奪う魔術師なのです。
本当に自分の望みを叶えるために必要なものはなんだったか。ティアナが自分のレストランを開きたいと思うのはお金のためだったのか。親の金で遊び暮らすことがナヴィーンにとっての「自由」なのか。ティアナのお父さんは長い貧乏暮らしの中で本当に不幸せだったのか。
それらの質問にもう一度考えて「No」を突きつけたとき、ティアナには「夢を叶えるために本当に必要だったもの」がわかります。それこそが家族とともに過ごす時間、「愛」なんです。
「ティアナは結局夢より愛を取った」んじゃなくて、「私の夢はあなた無しには完成しない」なんですよね。ナヴィーンの隣で、自分の夢を叶えたいの。そこが大大大好き。
— 𝙂𝙀𝙈𝘼𝙍𝘼 (ジェム) (@Gemararara) October 6, 2022
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ファシリエはママ・オーディと同じヴードゥー教の魔術師であるにも関わらずヴィランに定義されていますが、きっとファシリエもママ・オーディにWantとNeedの違いを教われば改心……というルートもあったかもしれませんね。だって中身なんて関係なく、オーディは皆に等しいのだから。
まぁブチ死んだので真相は闇の中ですけど。
とにかく「自分の中身(善悪や心の美醜)」よりも「自分が本当に求めているもの(何になりたくて、そのためには何をしたらいいのか)」に向き合うことで自分を見つめ直し変わることができるよというのは割と斬新な視点だと思います。
ちなみに「Dig A Little Deeper」の中で
Money ain't got no soul
お金には魂がこもってない
Money ain't got no heart
お金には心がない
という歌詞があり、「ディズニーがそれを言うんか……?」とドン引きした人も多いと思いんですけど、これは先述したスタジオの状況を考えてからDig A Little Deeper(もう一度考える)すると、「続編連発でお金に走ったかつてのCEO・マイケルアイズナーに対する、ディズニーからの99%の皮肉と1%の別れの挨拶」であることがわかります。最高か?
ラセターが着任したことで明らかに向上したのが「キャラクター同士の会話劇のレベル」です。
「Watch and learn」のくだりとか「If I can mince,You can dance.」みたいなウィットに富んだ言い回しっていうのかな、どちらかというとビジュアル的表現の方に重きを置いているウォルトの過去作品にはあまり無かった魅力ですよね。
まぁまとめると字幕(できれば英字幕)がいいよ。っつーことです。
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