初夏を迎えそろそろ海へ行きたいなと思っているこの頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
最近ブログの更新もツイートの更新も滞り自称ディズニーファンからただの人間になってしまいそうなジェムです。
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というわけで、一足早く試写での鑑賞をすることができました。実写リメイク版『リトル・マーメイド』。
いやぁ素晴らしかった。最近実写化商法がエゲつないでお馴染みウォルト・ディズニー・ピクチャーズですが、『アニメーション版に忠実な実写化作品』として、これ以上の最適解はないんじゃないでしょうか。泣いた。この時を待ってて本当に良かった。
というわけで今回は感動のままに、実写版リトルマーメイドの好きなとこを並べるだけの備忘録ブログです。
※もうネタバレしようがないくらいみんな大体のストーリーは知ってるだろという感じですが、一応前半部ではネタバレを避けつつ、記事後半でもう一度クッションが入りますので、まだ本作を未視聴の方、ネタバレを避けたい方はそこまで読んでブラウザバックすることをオススメします。
あらすじ
海の世界には人魚が棲んでいる。海を統べる王トリトンの意思とは反対に、末娘のアリエルは「人間の世界へ行くこと」が夢だった。
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But a mermaid has no tears,
and therefore she suffers so much more.
人魚はもっと苦しみました。だって、彼女は涙を知らなかったのですから。
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1989年に公開されたアニメーション映画『リトル・マーメイド』を原作としつつも、そのまた原作であるハンス・クリスチャン・アンデルセン版の『人魚姫』からの印象的な引用から始めることで両者への敬意を表明した本作。クレジットにも「89年版とアンデルセン版両方に基づく」といった表記がされており、アニメーション版の一貫した陽気な雰囲気とシリアスな原作の雰囲気とのコントラストが美しい映画です。
ハリエルの衝撃
さて、この作品を語るうえでやはり最初に言及しておかなければならないのは主演であるハリー・ベイリーでしょう。
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Photo Credit – Bang Showbiz |
16歳の時にビヨンセの前座を務めた実力派デュオChloe×Halleのうちの一人で、『美女と野獣(2016)』のエマ・ワトソンや『アラジン(2019)』のメナ・マスードのように「俳優に歌わせる」のではなく、最初から「演技のできる歌手」を起用した形。
ロブマーシャル監督も「オーディションでハリーがパートオブユアワールドを歌い、その後、誰も彼女を超える人が居なかった」と話していますが、実際に彼女のバージョンを聴くとそれが良くわかります。あの儚く美しいのに力強く芯のある歌声、エリックが「一聴き惚れ」するのも納得でしょう。
Animationという単語はラテン語のanima(魂)に由来しますが、彼女の歌声は非常にanimated(魂のある、生き生きとした)で、よくsoulless(魂がない)と評されがちなディズニー実写化作品群と本作が一線を画している理由については、やはりハリーの歌声によるところが大きいと思います。
「原作に忠実に」
さて、2019年にキャスティングが発表された段階から公開まで、本作は常に"ある批判"にさらされることとなりました。何を隠そう、ハリー・ベイリーの人種(もしくは肌の色)についてです。
彼女の主演が発表された時から、日本のみならず多くの国のインターネットは彼女のキャスティングに対し批判的であり、英語圏では、#Not MyAriel(私のアリエルはこんなのではない、の意)というハッシュタグが話題になるなど彼女に対するバックラッシュも大きかった。そんな中で最も多く挙がった意見は、おそらく「原作(89年のアニメ版)の実写化なのだから、原作に忠実であるべき。ビジュアルがアリエルに近い人間をキャスティングするべきだった」という意見でしょう。
この議論の是非はここでは割愛しますが、しかし筆者としては、この「アニメ版に忠実であるべき」と思う人にこそ本作を観てほしい、と思います。再三言いますが、ここまで「原作に忠実」な実写化映画は本作以上に無いのですから。
キャラクターは常に「アニメ版」にあり
実写化映画で何を重要視するか?アニメ版でアリエルを演じたジョディ・ベンソン御大はこのようにアンサーしています。*1
“The spirit of a character is what really matters,” “What you bring to the table in a character as far as their heart and their spirit is what really counts.”
(何よりも重要なのは、キャラクターのスピリットです。キャラクターの心や精神に何をもたらすのか、そういったことが一番大切です。)
“The most important thing for a film is to be able to tell a story. We need to be storytellers, no matter what we look like on the outside.”
(映画に必要なことは物語を伝えることです。私たちに必要なのはストーリーテラーであり、どのような見た目かではありません。)
それ以外は必要ない!とは言いませんが、そもそもエリックが求めたのは顔も知らないあの子の「声」なわけで、まぁそういう意味でもこの作品で必要だったのは何よりもハリーの「声」だったのだなと思います。
その作品がどこを目指しているのかによって評価軸はもちろん変わりますが、基本的に自分も実写リメイク作品を見るときに重要視するのはキャラクターの解釈です。そのキャラにとって何が大切なのか、何を不必要と思っているのか。そういったキャラの根本的な部分が再現されていることを何より重要視しています。そう考えた時に、やはりハリーのアリエルは非常にアニメ版に似たスピリットを持っているなと感じます。
アニメ版のスピリット
まずアリエルがエリックに恋に落ちるシーン。アニメ版のアリエルはエリックに一目惚れしていますが、今回の実写リメイク版ではアリエルはエリックとグリムズビーの船上での会話を聞いて、自分との共通点が沢山あることに気付き、その上で彼を助ける...という一連の流れがあります。
アニメ版のマスカー&クレメンツ監督は、そのような‘fairy tale thing(おとぎ話あるある)’が議論を呼ぶトピックであることを認識した上で、自身のバーションを「アリエルとエリックは元々運命の相手だったから、一目見ただけでそれがわかるんだ」*2 と説明していますが、まぁ実写でおとぎ話をやるとなったらアニメーションよりももう少しリアリティや掘り下げが必要になってくるということで、この辺の「恋に落ちた理由」については非常に丁寧に描写されています。
かといって、じゃあこれがアニメ版から全く脈絡のない追加要素かと言われるとそうでもないんですよね。エリックはアニメ版の時からアリエルと同様に他人の指示には全然従わないタイプの人間で、人魚の伝説についても目を輝かせて興味を示す描写があったりする訳で。エリックもアリエルと同じように「違う世界に対する興味」があるキャラクターなんですね。そんでもって、アリエルはエリックがマックスを助けるところをアニメ版でも見てるはずなんです。ただそこがアニメ版では深く掘り下げられなかったというだけで。
このように本作では、「アニメ版が元々持っていた要素を、より深く詳細に描写する」ということをしているわけです。
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ここで主演のハリー・ベイリーによるインタビューの抜粋とツイートを紹介。
We’ve definitely changed that perspective of just her wanting to leave the ocean for a boy. It’s way bigger than that. It’s about herself, her purpose, her freedom, her life and what she wants. *3
(私たちは間違いなく「アリエルは男性のために海を離れた」という"見方"を変えました。それよりももっと大きいこと。それは彼女自身や彼女の目的、彼女の自由と人生、彼女が望むものについての物語です。)
(オリジナルのストーリーは既にそのような性格を持っています。自分たちのバージョンではそれがより強調されるというだけ。恋に落ちることに反対でもない)
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さて、ハリーのコメントにもあるように、今回の実写リメイク版では、アリエルが海に行く理由について「エリックのため」よりも「自分の陸への興味のため」という部分が強調されています。
これは89年版の『リトル・マーメイド』で恐らくもっとも(誤解による)批判を受けている部分で、要は「アリエルは一目惚れした男のために自分の足まで捨てた」という批判がこの作品にはずっとつきまとっていたんですね。
アリエルはエリックに出会う前から陸の世界(Part of 'that' world)に興味があった訳ですので厳密にはこの批判は正しくないのですが、まぁ実際アニメ版のアリエルが陸に行くきっかけとなったのはエリックの出会いとトリトンのブチ切れ事件なわけで、アンデルセンの原作を鑑みてもまぁ完全に間違ってるとは言い切れないモニョッとした部分があります(繰り替えしますが、このような議論に対する是非はここでは割愛することとします)。
ということで今回の実写リメイク版では、そのようなアニメ版に対する批判的な「見方」を変えるために、アリエルの陸への興味という部分がより強調され、「男のために陸へ行ったのではなく、自らの知的好奇心のために行ったのだ」というアンサーをしている訳です。そしてそれはハリーが言っていたように「オリジナル(アニメ版)が元から持っていた要素」なのです。これこそが筆者が本作を「アニメ版に忠実」と評する根拠です。
(例えば実写版『アラジン』なんかではアニメ版ではそのようなことを示唆する描写が全くないにもかかわらず、いきなりジャスミンが王様になりたがるといったキャラクターの「改変」が行われてますが、この作品はそうではなく、「元々アニメ版にあった要素」を「より深く掘り下げる」ことによって、キャラクターの解釈を深めるというアプローチを取っているんですね。)
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「アンダー・ザ・シー」問題
「アニメ版に忠実だ」と言った直後にする話では無いと思うんですが、本作ではいくつかのキャラクター設定の変更があります。
アニメ版では16歳という設定のアリエルですが、今回の実写リメイクに当たってのプロダクションノートには18歳と書かれているらしく*4、アニメ版よりも若干大人びた性格といった印象で、考え方もその伝え方も「でもパパ、彼を愛してるの!」から「(人間と人魚は違うと主張するトリトンに対して)でも敵じゃない」になるなど論理的です。先述した通りアンデルセン版にも多大なリスペクトを払っている本作ですので、原作版とアニメ版の主人公を足して2で割ったくらいのバランス感に調節したのかなと思います。
筆者はツイッターで散々「アニメ版アリエルは反抗期がヤベェ」といった旨の分析をしているのですが、実写版ではそれが若干落ち着いてきているためか、アンダー・ザ・シーのシーケンスでもノリノリでセバスチャンに合わせて歌ってくれます。
このアンダー・ザ・シーのシーン、割と「なんでアリエルがここでノリノリで歌ってんだよ」というツッコミが多いみたいなので筆者の解釈を置いておこうと。
まずどうしてそういうツッコミがあるかって、アンダー・ザ・シーっていうのは要約すると「陸サイテー海サイコー!」って歌詞な訳ですね。なので「アリエルって海嫌いで陸に行きたいと思ってんだろ?なのになんでアリエルがこの曲に合いの手入れてるの?」となるわけです。
ここから筆者の解釈ですが、まずそもそもアリエルって「海の世界が嫌い」なわけではないんですよね。少なくとも、アニメ版でも実写版でも「海はクソ」「海が嫌い」とかアリエルは一言も言ってないわけですよ。唯一上げるとするならPoYWでの「Betcha on land, they understand. Bet they don't reprimand their daughters(陸の上の人達ならわかってくれる、絶対に娘を叱ったりしないわ)」くらい。むしろ海が好きだからこそ、父親を始めとした海の人間がそれをわかってくれないことに苛立つわけで。実写版ではこの設定を活かして「海と陸の融合」的なところをラストの落としどころにしている訳ですね。
「海が好きなのはわかったけど、でも陸ディスに同意してるのはおかしくない?」いいえ、実写版のアリエルは歌の序盤で2回帰ろうとしています。アニメ版のアリエルは(凄くつまらなさそうとはいえ)フランダーが来るまでは大人しく座ってセバスチャンの歌を聴いてくれていたわけですが、ハリエルは歌の途中でどこかへ泳いで行ってしまう描写が用意されてるんですね。で、その2回がどういうシチュエーションかというと、セバスチャンが歌い出した時と、Out in the sun they slave away(太陽の下で彼らは奴隷のようにこき使われている)という歌詞の直後です。後者に関しては、わざわざハリーがセバスチャンの方を眉毛を上げながら見るという反応まで描いてます。つまりセバスチャンの人間ディスに関しては「は?」という反応をしっかりしているわけです。
というわけで、「アリエルは別に海の良さも理解しているし、陸ディスには賛成していない」というエクスキューズによってアリエルがアンダー・ザ・シーにハモリを入れることの整合性は取れているかなと思います。
まぁアリエルが帰ろうとした2回ともセバスチャンにヒレを掴まれたりしつこく追いかけられたりしているので、単純に「こいつめんどくせぇから合わせて歌っておこ」とか思ったのかもしれないし。真意はアリエルのみぞ知る。
さて、何でこんなに長い尺をかけてアンダー・ザ・シーのアリエルについて話したかというと、この「アリエルが一緒に最後のバースを歌う」という改変がのちの重要な描写に繋がっているからです。
アニメ版のアリエルはラスサビ前にフランダーに連れられて洞窟に行ってしまうんですが、ハリー版のアリエルはご存知の通り最後のサビまで一緒に歌ってくれます。で、そこの歌詞に注目して見てみると、
Under the sea(under the sea)
アンダー・ザ・シー
When the sardine begin the beguine
イワシがビギンのリズムに乗り始める時
It's music to me
それが私にとっての音楽
What do they got? A lot of sand!
彼らは何を持ってる?たくさんの砂
We got the hot crustacean band.
俺たちにはホットな甲殻類のバンド
という歌詞があります。
この歌詞を踏まえてアリエルとエリックが市場に出掛ける場面を思い出すと、2人が「ビギンのリズムに乗りながらホットな音楽隊と共に踊り、砂埃が舞う」シーンがあることに気付きませんか?ここ、明らかに海と陸との対比になっていませんか?
アリエルがsand!の部分で砂を撒くのと城下の人々がリズムに合わせて帽子の中の砂を撒くシーンがわざわざ追加されているあたり、おそらくここは「意図的に追加した」描写であることが伺えます。
これは陸と海の共通性を表しているのではないでしょうか。Under the seaでアリエルがノリノリで歌っていた「海だけにしかない素晴らしいこと」を、陸の人々も同じように楽しんでいる。
どちらも体験したアリエルは、アリエルだけがそのことに気付くんです。
「陸と海という2つの世界」は全く違うように見えて本質は同じなんだと。そう、丁度エリックとアリエルのように。
陸と海、父とヴィラン
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※ここからは結構お話の核心についてのネタバレがありますので、まだ未視聴だったりネタバレされたくないという方はブラウザバックをお願いします。
さて、89年にアニメ版が公開された時、ロン&ジョン監督は沢山のファンレターを貰ったそうですが、その多くが「父娘の関係」についての賞賛だったといいます。
「ファンレターの中で印象に残っているのは、この映画を観て、疎遠になっていた娘さんと関係を修復できたという内容だった。」ロン・クレメンツ *5
「過保護な父親が娘の自立を制限し、罰するが、最終的には娘を手放さなければならないことを認め、考えを変えます(アリエルにはそのようなキャラクターアークはありません。物語の中で変わるのはアリエルではなく、セバスチャンとトリトンです)。
アリエルとエリックのロマンスよりも、アリエルとトリトンの関係に観客は感情移入できるのだと思います。」ジョン・マスカー *6
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もはや監督自身が「アリエルとエリックの関係よりも」とか言っちゃってます。そうなんです、この作品はロマンス・アドベンチャーという側面よりも、「父と娘の物語」としてファミリー層に受容されたという背景があるんです。
アリエルを守りたいがゆえにアリエル本人の意思を無視してしまうトリトンの傲慢さと不器用さ。
『リメンバー・ミー』や『ミラベルと魔法だらけの家』など、近代ディズニーは「子供の意思を尊重してくれない親」をヴィラン的な立場に配置することが多いですが、1989年の『マーメイド』はその走りでもあったわけです。
アニメ版でも'father just listen to me!'と声を上げるシーンがあるんですが、当然トリトンはそれを跳ね除けます。彼としては愛娘を守ろうとしてしたことだったのですが、最終的に彼は「自分もアリエルから声を奪っていたのだ」ということに気付くわけです。
アニメ版でハワードによって追加された'How much I'm going to miss her'も涙なしには観ることができない号泣必至セリフなのですが、今回の'I wish you didn't have to lose your voice to be heard. (声を失うべきではなかったのに)'からの一連の流れも涙腺崩壊級ですね。
アースラに脚を貰った時のアリエルは涙を流さない(または流せない)んですが、トリトンに人間にしてもらった時のアリエルは綺麗な涙を流すんですね。対するトリトン本人は、人魚だから瞳が潤んでいても涙を「流す」ことはできずに、そっと目を瞑る。ここで序盤の方にメンションしたアンデルセン版の引用が効いてくるという仕組み。いやぁ本当に脚本がよく出来てるなぁ。
この父娘の関係、アニメ版では「トリトンに似て頑固なアリエル」という部分が強調されていたんですが、実写版でのアリエルはもうすこし賢そうでトリトンは威厳のある感じで。アニメ版の2人が表情で伝えあった感情を実写版では言葉で伝え合うってのがまた泣けます。
そういえば「アリエルの表情が豊かじゃない」ってツイートもいくつか散見されますけど、そもそも実写化でアニメ版と同じくらい表情筋使ってるキャラなんて存在するか?という感じですし、アニメ版監督のジョン・マスカーからして舞台化の際に「僕達はわざと「実写」的なアプローチを最小限にして、アニメーションが得意とする方法を強調して作品を制作している」といった旨のコメントをしているのでそもそも表情を再現ってのはそこまで実写化に求めるものではないのかなと思います(だからこそヴァネッサ役ジェシカ・アレクサンダーの発狂演技はアニメ版と同じすぎてヤベェという話でもある)。
かといって100分近くシェリー・ストナー(アニメ版アリエルの実写モデル)のような演技を観せられるのもくどいですし、表情で伝えきれない分を脚本(台詞)で補強するから、実写化作品は往々にしてアニメ版よりも長くなるわけで。
そして何よりも、ハリーって「目の演技」がとんでもないんですよね。
PoYWリプライズでの強い意志を持った瞳然り、人魚に戻った後に陸を見つめ続けるシーンでのどこか遠くを見てる瞳然り。エリックが結婚すると知って岩に戻るシーンも涙を流してないのに瞳は泣いてるし。
言葉が無いシーンでも瞳の演技で感情を伝えるのがすごく上手いので個人的にはそこまで「表情豊かじゃない」という印象は自分は受けませんでしたね。
追加シーン
アニメーションから追加されたシーンでやっぱり記しておかなきゃいけないのはキス・ザ・ガールでの「アリエルがエリックに名前を教えるシーン」でしょう。いやぁよかったです。
アニメ版ではこの辺りの描写について、「何でアリエルは自分の名前が書ける(読み書きができる)のにエリックや城の人と筆談しないんだ」というツッコミが入ったんですね。で、恐らくそれを避けるために契約書を書くシーンをオミットして代わりにこのシーンを追加したわけですけど、これがもうめちゃくちゃ良い。二人の距離が縮まっていく様子が丁寧に描かれています。萌え。
アリエルはアースラの魔法のせいでキスのことは忘れてしまってるわけですが、ここで「エリックの唇を触る」ことでお互いにキスを意識するという流れも自然に見えます。
あとスカットルの"Has Ariel 'killed' the prince yet?"とか(原作では人魚は王子を殺せば人魚に戻ることができた)、アースラの洞窟の入り口に骸骨があるのとか、アンデルセン版の要素をちょいちょい入れてきてるのも良かったですね。
あとがき
そんなこんなでザッと実写版リトルマーメイドについての感想を書いてたらあっという間に8000字近くなってしまい、なんと当ブログで文字数最長になってしまいました。まぁ2019に制作発表されてからだいぶ長いこと待ってた作品なのでその分嬉しさがあり。
Twitterやらで何度も言ってますが、何よりも誰よりも公開を心待ちにしていたのはハリーやロブマーシャル監督をはじめとした製作陣でしょうね。作品を観たらどうしてハリーがアリエルにキャスティングされたのかが良くわかります。世界中からアリエル役にピッタリの人間を探したとして、それはやっぱり彼女になるんだろうな。
ロブマーシャル監督がインタビューでエリックのことを「木製の王子様」呼ばわりした時は本当どうなることかと思いましたが、原作とアニメ版へのリスペクトをしっかりと持ちつつ忠実な実写化をしてくれたなと。あれは「俺の方がもっと良くエリックを描けるぜ!」って意味だったんですね。当時のアニメイター達の「ウォルトに勝とう」みたいな気概を感じますね。
エリックの母ちゃんの掘り下げ少なすぎだろとか、実在する国名を出しちゃったら歴史修正主義に片足突っ込むことになるだろお前らは『南部の唄』から何を学んだんだとか(ちなみにWDPは同じことを実写版『美女と野獣』でも繰り返している)、まぁ文句もないわけでは無いんですが、それを補っても余りあるほどに、作った価値も観る価値もある良作だったなと思います。
ディズニーはそろそろ実写化の量産をやめろとは常々思っているんですが、何なら実写版『美女と野獣』の悪口だけでブログ一本書けるなとか思っていたんですが、今回ばかりは流石に完敗です。実写版を映画館でリピしてしまうなんて…..個人的に一回目より何回も見た後の方がより泣けたので、まだ観てない人ももう観たよって人も是非ハリーの歌声が劇場で聴けるうちに何度も足を運んで欲しいなと思います。
そんなこと言っていたらめちゃくちゃ観たくなってきた。
今日は劇場に足を運んで、未知の世界の一部になってみようか。
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参考文献
*5. 『リトル・マーメイド』オーディオコメンタリーより
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